昭和24年 日本貿易博覧会 望遠鏡の絵葉書 (社団法人日本写真文化協会神奈川県支部 発行)
戦後、疲弊した地域・社会の復興活性化策のひとつとして各地でさまざまな博覧会が開催されました。 その中のひとつ、昭和24年に横浜で開催された『日本貿易博覧会の絵葉書』です。
会場は神奈川会場(現反町公園一帯)と野毛山会場(現野毛山公園一帯)の二ヶ所で、会期は昭和24年3月15日〜6月15日まででした。
野毛山会場全景と野外劇場並に天文館の口径50センチ望遠鏡
絵葉書の右端の建物は『観光館 』、左端の建物は『第一科学発明館 』で、その右隣の丸屋根の建物は『演芸館 』、中央の旗を掲げている建物は『子ども館』です。『第一科学発明館 』では、『高柳式テレビジョン 』などの一般公開が行われました。 望遠鏡については、国立国会図書館のレファレンス協同データベースによると『甦る横浜・内田四方蔵編・横浜歴史研究普及会 』の『日本貿易博覧会漫歩 』の中で
『英国トムキンス製による口径五十センチ、筒長二米余りの大反射望遠鏡と口径十八インチの 凹凸曲折鏡があって、大反射によってみると・・・』という記事が見られるそうです。 しかし、『五藤光学研究所の日本一反射天体望遠鏡 』と書かれた文献(『貿易と産業・日本貿易博覧会会誌横浜1949年』や『横浜西区史・区制50周年記念 』)もあるとのことです。
この点を五藤光学研究所の方にお尋ね致しましたが、記録が残っていないので、この絵葉書の望遠鏡についてははっきりわからないというのが現状です、とのことでした。 ただ、ドイツ型の赤道儀になっていて、バランスウェイトの形状を見ると、海外の製品のように思います、とのご教示を頂きました。
また、『日本アマチュア天文史・恒星社厚生閣 』の天文同好会の章で東亜天文協会(現東亜天文学会)神戸支部についての記事中に注意を引く文章があります。 『・・・隹部(ささべ)夫妻は10吋反射(赤)、6吋屈折(赤)などを持ち、変光星観測をやっていた。とくに夫人の方が熱心だったという。その他に18吋・リンスコット反射鏡(未組立品) を持っており、これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。 』と記載されています。
博覧会の呼称がちょっと違うことが気になりますが、多分、同じ博覧会のことでしょう。しかし、18インチでは45センチしかならない・・・・。 絵葉書の望遠鏡のほかにも出品された望遠鏡があったことと思いますが、また、この絵葉書の望遠鏡と18吋・リンスコット反射鏡が同一の可能性も否定できないと思います。
(そうなると『甦る横浜 』のなかの「・・・口径十八インチの 凹凸曲折鏡があって・・・」の記事との関連がよくわかりませんね。記事は、「50センチ鏡と18インチ鏡があって・・・」となっていますので。 それにしても凹凸曲折鏡とは何でしょう? 仮に屈折鏡としたら45センチの屈折望遠鏡が展示されていたとはにわかに信じることができませんが。)
さらに、『続 日本アマチュア天文史 』の『望遠鏡と観測機械 』の章で上記の18吋リンスコット反射鏡についての記事があります。 ここには「・・この望遠鏡は戦後初の博覧会である横浜野毛山の平和博覧会に出品され、横浜市に移管、現在は横浜学院にある。」とあります。
隹部(ささべ)氏所有の18吋リンスコット反射鏡が昭和24年の日本貿易博覧会に展示されたことは間違いないようですが、はたしてこれが、『甦る横浜』に記載された50センチ大反射望遠鏡であり、 この絵葉書の望遠鏡かとなると現状では『結局わかりませんでした。』と書かざるを得ません。
ちなみに隹部氏は最初26センチ反射を購入(1933年)し、後にリンスコット鏡と換装したとのこと。架台は西村製のドイツ式赤道儀で15センチの屈折が同架されたということです。 戦前から戦後の早い時期までの口径20センチ以上の望遠鏡の一覧表を見ますと、トムキンス製は生駒山天文台(口径60センチ・1936年)のみで、
リンスコット製は上記の隹部氏と射場保昭氏(口径31センチ・1930年)の二人が所有していたようです。射場氏は隹部氏と同じ神戸市在住です。射場氏の反射望遠鏡は架台もリンスコット製(ドイツ式赤道儀)で 1947年に東京天文台に移管されたとなっています。
神奈川会場中央広場 大記念塔 絵葉書
中央が野外劇場、その右が『天文館 』。上の2枚とは違うシリーズの絵葉書です。 左端の三脚を立てた人物は記念写真屋さんでしょうか。ドラム缶はゴミ箱?。
さらに違うシリーズの絵葉書。上のカラー絵葉書の反対側からの構図です。変形屋根に見えているのはスリットでしょうか。 屋根部分と外壁部の境に隙間があるようですので、屋根部分は回転できたのでしょうね。多分・・・。
(追記)
横浜市在住の方からこの望遠鏡についてご教示いただきました。
『天文と気象1949年5月号』のグラビアページに五藤光学にて調整中の写真が掲載されているということです。 また、国立科学博物館の先生のご記憶によりますと、口径47センチで鏡はリースコット製、架台は西村製で、鏡の厚さは25ミリと薄いものだった、とのことです。
鏡筒の製作者は現時点では特定できませんが、恐らく、望遠鏡本体(鏡・鏡筒)が輸入され、貿易博覧会出品に当たって五藤光学において調整された、という事ではないでしょうか。
(追記2)
「天界」のNo.318(1950年6月号)に望遠鏡の写真を見つけましたので付記いたします。 バックの建物内部構造から「天文館」内に設置された状態での撮影と思います。説明では「横浜天文台」と記されています。
さらに、「天界」No.319(1950年7月号)にも関連記事がありました。この記事もやはり「横浜天文台」と書かれ、博覧会終了後、そのまま跡地にて公開天文台として毎夜アマチュアの使用に 供されている、と書かれています。なお、ここでは「望遠鏡は英国トムキンス製口径50センチで3インチの屈射鏡が同架されている」となっています。また、博覧会のために横浜市が某アマチュア天文家より五十万円で購入し、五藤光学研究所で 修理された、とも書かれています。
(追記3)
平成25年6月2日に横浜の齋藤和男氏よりご教示を頂きました。ご許可を得てそのまま転記します。
『大変興味深く、読みました。この望遠鏡が野毛山にあった時、多分昭和30年か31年頃、月を見せてもらいました。その後、おそらく野毛山遊園地が閉鎖された際に、横浜市磯子区岡村町にある横浜学園に移設されました。 昭和24年 日本貿易博覧会 望遠鏡の絵葉書には「横浜学院」とありますが、「横浜学園」の間違いです。ちなみに、「横浜学院」は山手の丘の上にあった女学校で、「横浜女学院」と名前を変えて今もあります。』
なお、望遠鏡は平成25年6月13日現在、横浜学園高等学校2号館屋上に設置された天文台ドーム内にて保存されているとのことです。ただ老朽化が進み現在は使用不可能の状態であるそうです。
横浜学園高等学校2号館屋上に設置された天文台はGoogle Map(航空写真)でみることが出来ます。