筑前「星の宮」について


福岡県宗像郡玄海町の神湊(こうのみなと)より西北海上へ7q。筑前・大島は標高217mの御嶽山を中心とする周囲16qの孤島である。

渡船発着場から西へ約300mの小高い所に中津宮と呼ばれる社殿がある。中津宮は宗像大社の三宮のうちのひとつであり、日本書紀・古事記にもその名を見ることができる古い歴史を持つ宮である。

この中津宮の一の鳥居の近くに「天の川」と名付けられた小さな川があり、傍らに文学博士・武田祐吉氏揮毫の歌碑がある。「いかなれば とだえそめけむ天の川 あふせにわたす かささぎのはし」

平安時代の和歌の詠み方の法則・作法を記した書物を和歌式というが、その中のひとつ「如式髄脳」(注@)に、「筑前大島と云所に星の宮とてあり 川を隔てて宮あり 北を彦星の宮といい南を棚機の宮

というなり 男をまおす者は彦星の宮に篭るなり 七月一日篭りて七日に至る川中に三重の棚を結て星の祭をして三つの盥(たらい)に水を入れて影を見るに いづれも逢べき男の姿 水にうつればその男 逢うと知るなり」

とある。また、1498年頃成立の「古今栄雅抄」(注A)に、「筑前国大島に星の宮と云て北は彦星を祝い南は織女を祝う二社の間に川あり 天の河となづく 女を得んと思えば織女の宮に篭り 男を得んと思えば彦星の宮に篭る」

と記されている。そして、7日間参篭ののち、たなばたの宵に川中に三段の棚を作り、それぞれに水を入れた盥(たらい)を置き、想う人の名を書いた短冊を浮かべてお祭りをする、とある。 たなばた説話はご存じのように古代

中国の民間説話にその根源を置くが、現在伝えられる物語に成立するのは、漢の時代に入ってからとされる。我が国への伝来時期は定かではないが、奈良朝の初期には既に知られていたことは間違いない。このことは「万葉集」に数多

くの例を挙げることができる。しかし、万葉集では織女をタナバタあるいはタナバタツメと読んでも「七夕」はナヌカノヨまたはナヌカノヨヒと読み、当夜を未だタナバタとは称していなかったようである。と言うのも、この時代では当日

(七月七日)は節日として宮廷において宴を催すもののその主眼とするものは、「続日本紀」の天平六年(西暦734年)七月丙寅に「天皇観相撲戯」とあるように神前での「すもう」の奉納が第一であり、次に当時の宮廷人のたしなみのひと

つである詩歌の創作であったためと思われる。万葉集に数多くのたなばたの歌が載るものの牽牛・織女の二星は祈りの対象としての主役ではなく、むしろ詩歌創作のための脇役(モチーフなりイメージを与えてくれる存在)であったと言ってよい。

主はあくまでも詩歌創作であった。牽牛・織女二星が当夜の主役につくのは、のちに「七夕」をタナバタと読むようになってから、あるいは逆に主役についてから「七夕」をタナバタと読むようになったのだろう。その時代は寡聞にして筆者には

解らないが次に記す「乞巧奠(きっこうてん)」がヒントになると思われる。「乞巧奠」とは牽牛・織女の二星に裁縫が巧みにならんことを願う儀で、奈良朝末期に唐より入ってきた風習である。この儀式が入ってきたことにより、それまでの宴

のようすに変化が生じた。すなわち、それまでのたなばた説話と乞巧奠が結合することによりあらたな宴の誕生となったのである。具体的には、七月七日の夜に牽牛・織女の二星に対して男女恋愛の成就を初めとして「さまざまな願い事を祈る」

いわゆるたなばた祭りが始まったのである。乞巧奠の我が国での始まりは、一条兼良の「公事根源」によると天平勝宝七年(西暦755年)という。しかし、江戸幕府の命により屋代弘賢らが編纂した「古今要覧稿」によれば「続日本紀」(西暦797年成立)

には書かれていないということで一条兼良説に疑問を呈している。乞巧奠のようすを初めて記したのは、「延喜式」(西暦927年成立)であるが始まりはとなるとやはり不明である。

乞巧奠が最も隆盛をみたのは平安時代中期から末期にかけてで、この時期に至って完全に当夜の宴の中心が奈良朝の奉納すもうと詩歌創作から牽牛・織女の二星に願い事を託す祭りへと移り変わったようだ。因みに笹を立てて願い事を書いた種々の

色紙や短冊を吊るすようになったのは江戸時代になってからで、元禄年間の「大和耕作絵抄」や宝永年間の「花洛細見図」等にその記事や図を見ることができる。さて、前記の「如式髄脳」「古今栄雅抄」の記述は庶民のたなばた祭りの所作と思わ

れるがその共通点は、@川の中に棚を設ける。A盥(たらい)に水を張る。B配偶者を求める、である。@は「延喜式」に書かれているように二星に供えるための酒・塩・木綿・紙・海藻 等を載せた棚の変形に相違ない。供物は時代によりさまざま

な変化があるが、平安朝宮廷では、十三絃の箏・針・糸・香炉・鏡・大豆・瓜・盃などであった。Aは、室町時代末の「徴古図録」に記載された水を張った角盥(つのだらい)と同様で、平安朝宮廷の鏡に代わるものであろう。また、盥に名前を書い

た短冊を浮かべる。あるいは、水に想う人の影を見るという作法は中国の宋時代の「東京夢華録」に記された乞巧奠の供物のひとつ「磨喝楽」を連想させられる。「磨喝楽」とは、「水上浮」ともいい、土製(時代によって違う。明時代はロウ製)の

幼児の人形を水に浮かべて子の出来る事を願ったものだそうである。Bは、本来、裁縫や技芸の上達を願った祭りが牽牛・織女の二星からの連想により、男女の良縁を願うものへと変化したものと思われる。さらに七日間篭るというのは、七月七日の

数字からの連想に基づくものと思うが、単なる数字の語呂合わせ及び「多い」という意味の「七」以上に「七」の数字に神秘力を感じ、意味を持たせたのでないだろうか。というのも日月五星の七曜や北斗七星、あるいは天空の四方をそれぞれ七宿に

区切った二十八宿などとの関連で古来より「七」が星と深いつながりがある、という考えが根底にあり、そのうえで「七篭り」となったのではないかと考えるがこれは筆者の深読み過ぎかも知れず、今後の課題である。ともあれ、星の宮の建立は

「大島第二宮御神事次第」(弘治二年・西暦1556年成立)によると室町時代に入ってからということだが、「如式髄脳」「古今栄雅抄」にみるように建立以前より既に前述のたなばたの所作があったものと思われる。

星の宮の存在と前記二書の記述内容は、たなばた祭りの変遷を考えるとき平安時代から鎌倉・室町時代における民間の所作がどのようなものであったを知る大変貴重なものであるといえる。

(注@)「石見女式」ともいい、成立年代は不明だがおおよそ平安時代末期から鎌倉時代とされている。(注A)室町時代中期の和歌注釈書だが記述内容は平安時代まで遡ることができる。

左側の立て札に「織女神社」とある、コンクリート製の祠

手前が一の鳥居、奥が二の鳥居。左の木立の中に織女の宮、反対側に牽牛の宮がある。

(参考文献)

宗像神社史(上巻) 宗像神社復興期成会(1961年)

平安朝の年中行事 山中裕著 塙 書房(1972年)

日本古典文学全集 萬葉集(1〜4) 小学館(1973年)

宗像路散歩 上妻国雄(1977年)

太宰管内志(復刻版) 防長史料出版社(1978年)

江馬務著作集(8・9・11巻) 中央公論社(1978年)

大島村史 大島村教育委員会(1985年)

和歌大辞典 明治書院(1989年)


福岡県行橋市下検地183−6

上門 卓弘(うわかど たくひろ)

TEL/FAX 0930−24−5856


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